​2017©彰義隊子孫の会

​三ノ輪の圓通寺

昨日(2017年10月13日)、子孫の会小川顧問と、上野彰義隊墓所と並び彰義隊の聖地とも言うべき三ノ輪の圓通寺「戦死墓」にお参りし、29代御住職乙部活機様との面談が実現した。以下、ご住職の直話と圓通寺のHPから。圓通寺は江戸時代に「下谷の三寺」の一つでもあった名刹。下は往時の圓通寺。殉難幕臣の墓が表門の右に立ち、上野戦争を生き延び大日本印刷を創業した佐久間貞一の墓も、三幸翁や仏磨和尚の碑も見える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

圓通寺の門を入ってすぐ左手に緑のフェンスに囲まれた墓域の手前に黒門が立つ。黒門は城に喩えれば大手門というべき寛永寺正面の総門で、現在の京成線上野駅の辺りにあり、ここを守備する彰義隊の精鋭に、現在の永藤ビル辺りにあった三枚橋を侵入した篠原国幹らの率いる薩摩藩の部隊が襲いかかった上野戦争の最激戦地の象徴とも言うべき遺構で、明治40年に帝室博物館より特に圓通寺に下賜せられたもの。荒川区指定有形文化財。いくどか修復されたが弾痕の跡はそのまま残っている。曰く、“弾痕、蜂の巣ごとく印し、激戦の状、目の當り見るが如し”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

武士(もののふ)の忠死傷(いた)むや夕さくら

戦死した彰義隊士の亡骸(なきがら)は勝った「官軍」が「賊軍」の慰霊を許さなかったため、無惨にも戦場に放置されたままで、刀剣や懐中など戦死者の遺物を狙う者が横行したが、圓通寺の仏磨和尚(二十三世)は構わず上野の山に出向き、斬首覚悟で供養を続けたため官軍に拘引され、僧侶身分のため、伝馬町牢屋敷の揚屋に収監された。仏磨和尚はそこから大村益次郎に供養を願い出たところ、大村もその必要を内心感じていた為、渡りに船で、埋葬供養を公式に許可することとなり、これがため明治新政府のもとで唯一「賊軍」の法要が公然と出来る寺として旧幕臣の信仰を集め、「寺門ますます隆盛に赴いた」という。

 

戦死者の遺骸は豪商で侠客だった「三幸」こと三河屋幸三郎の支援で上野山王神社跡(現上野彰義隊墓所)に遺体が集められ荼毘(火葬)に付された。現在黒門の立つエリアの最奥にある「戦死墓」がその墓所と伝わる。昭和13年東京都文化財指定、昭和58年荒川区史跡に登録。そのすぐ左隣の「死節之墓」は彰義隊の供養に尽力した三河屋幸三郎が向島の別荘に秘かに立て、鳥羽伏見の戦い、函館戦争で亡くなった幕臣や会津などの諸藩の戦死者の氏名を彫って供養をしていたものを此処に移築した。近藤勇、土方歳三など九十七名と「神木隊二十八名」が彫まれる。

 

            「死節之墓」                      「戦死墓」

 

 

              合同船                          土肥庄次郎

御住職の話で最も印象深かったのは、「当時の武士は死を恐れず、どう生きるかよりも、どう死ぬかを常に考えており、彰義隊士達は、”上野で死ぬならいい”と思っていた。」という言葉だった。また禅宗の僧侶は末期に臨み門弟に残す偈(遺偈)を毎年正月に更新するのは武士の覚悟に通じるとも。確かに、大道寺友山の「武道初心集」は、”武士たらんものは、正月元日の朝、雑煮の餅を祝ふとて箸を取り初るより、その年の大晦日の夕べに至るまで、日々夜々死を常に心にあつるを以て、本意の第一とは仕るにて候”と云っており、武士と僧侶は、城郭と寺院が似通うように、覚悟において相通じるものがあるようだ。

もう1点、彰義隊の敗因について、大村益次郎が長州兵を「会津藩士の応援部隊」と偽って黒門口を守備する彰義隊の背後に回り込ませ薩摩兵と挟み討ちにしたことが戦後に瓦版(かわらばん)で報じられたため明治政府が慌てて回収したという話も興味深く、敗因は肥前藩が本郷台から放ったアームストロング砲の威力だったという通説を覆す。この大村の謀略に関しては柳営会報に嘗て彰義隊子孫の鈴木勝義氏が同趣旨の記事を寄稿している。

以上、事務局

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